近松門左衛門 wikipedia|無料辞書
竹本座に属する浄瑠璃作者で、中途で歌舞伎狂言作者に転向したが、再度浄瑠璃に戻った。『
出世景清』は近世浄瑠璃の始まりといわれる。100作以上の浄瑠璃を書いたが、そのうち約20曲が世話物、残りが時代物であった。
世話物とは、町人社会の義理や人情をテーマとした作品であるが、当時人気があったのは時代物、特に『
国性爺合戦』であり、『
曽根崎心中』などは
昭和になるまで再演されなかった。同時期に
紀海音も門左衛門と同じ題材に基づいた心中浄瑠璃を書いており、当時これに触発されて心中が流行したのは事実であるが、世話物中心に門左衛門の浄瑠璃を捉えるのは近代以後の風潮に過ぎない。また、門左衛門は「虚実皮膜論」という芸術論を持ち、芸の面白さは虚と実との皮膜にあると唱えたといわれるが、これは
穂積以貫が記録した『難波土産』に門左衛門の語として書かれているだけであり、門左衛門自身が書き残した芸能論はない。
◆ 生涯
父・信義が浪人し、近松は共に
京都へと移り住む。ここから先は、
山岡元隣『宝蔵』(
寛文11年 (1671) )に両親等とともに門左衛門の一句が収められている他はしばらく伝記が途絶えるが、
延宝、
天和頃より浄瑠璃の
宇治加賀掾や歌舞伎の
坂田藤十郎等のための作品を書いた。しかしこの当時の、作品に作者の名を出さない慣習から、近松作品は特定されていない。天和3年 (1683) 、
曾我兄弟の仇討ちの後日談を描いた『世継曾我』(よつぎそが)が宇治座で上演され、翌年
竹本義太夫が竹本座を作ってこれを演じると大好評を受け、門左衛門の浄瑠璃作者としての地位が確立される。
その後も義太夫と組んで名作を次々に発表し、
貞享3年 (1686) 、竹本座上演の『佐々木大鑑』で初めて作者名として近松門左衛門と記載した。
元禄16年 (1703) 、『
曽根崎心中』を発表。
宝永2年 (1705) に竹本座の座元が
竹田出雲に替わっての顔見世興行『
用明天王職人鑑』からは座付作者となり、住居も大坂に移って浄瑠璃の新作に専念した。
正徳4年 (1714) には尼崎の広済寺再興の折りに、本願人として尽力した。正徳5年 (1715) の時代物『
国性爺合戦』は、10月から竹本座にて17ヶ月の連続公演となる人気を博す。
享保元年 (1716) に母の喜里が死去。門左衛門の家族は妻と3人の息子がおり、次男と三男は浄瑠璃関係の仕事に就いている。
享保8年 (1724) に、幕府は心中物の上演の一切を禁止した。心中物は大変庶民の共感を呼び、人気を博したが、こうした作品の真似をして心中をする者が続出するようになったためである。その翌年の享保9年(1725年)11月、門左衛門は72歳で没する。辞世の歌「残れとは 思ふも愚か 埋み火の 消ぬ間徒なる 朽木書きして」。
◆ 主な作品
・『近松全集』は
岩波書店全16巻などがあり、勉誠社でも刊行。
◇ 浄瑠璃
◇ 歌舞伎
・ 『けいせい仏の原』
◆ 関連書籍
・河竹繁俊『近松門左衛門』(吉川弘文館、人物叢書、1958年)
・三田村鳶魚『近松の心中物・女の流行』(中公文庫、1999年)
◆ 関連項目