四日市高校から
1950年に
南海ホークスへ入団。
1951年に31試合登板し、10勝7敗、防御率2.03を記録して南海の優勝に貢献した。防御率2.03はリーグ1位の成績だったが、この年だけ導入された資格投球回数算定法によって南海ホークスの標準回数が164回と決まっており、投球回数が155回だった服部は規定未満として
最優秀防御率のタイトルを逃し、2.08で2位だった同僚の
柚木進がタイトル獲得となった。
日本シリーズにも出場し、第1戦、第2戦はリリーフで登板。第4戦は先発で8回まで無失点だったが9回に
読売ジャイアンツ打線に打ち込まれ3点を失って降板。リリーフした柚木が後続をしっかりと抑え、服部が勝ち投手となった。翌年は自己最多となる16勝を挙げた。この年の日本シリーズも第4戦で先発するが負け投手となっている。
1953年は1軍での登板無く、
1954年に
高橋ユニオンズへ移籍するが勝利できず、
1956年に
毎日オリオンズへ移籍。
1958年に
広島カープへ移籍し、同年
引退。1952年以降はまったく勝利することができなかった。