その中にあって日本の律令国家体制では、天皇は中国の皇帝と並ぶものであり、唐と同様、日本を
中華とする帝国構造を有していた。それは国家の統治権が及ぶ範囲を「化内」、それが及ばない外部を「化外」と区別し、さらに化外を区分して唐を「隣国」、朝鮮諸国(この時代には新羅と渤海)を「諸蕃」、蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定する「東夷の小帝国」と呼ぶべきものであった
[石母田 (1989) pp.15-17][酒寄 (2002) pp.271-272]。もちろん律令にそう規定し、それを自負したり目指したことと、とりわけ唐や朝鮮諸国との関係に実態がともなったかどうかは別の問題である。
630年の
犬上御田鍬にはじまる日本からの
遣唐使は、奈良時代にはほぼ20年に1度の頻度で派遣された。大使をはじめとする遣唐使には、
留学生や学問僧なども加わり、多いときには約500人におよぶ人びとが4隻の船に乗って渡海した。日本は唐の
冊封はうけなかったものの、実質的には唐に臣従する
朝貢国の扱いであった
[吉田(1992)]。使者は
正月の
朝賀に参列し、皇帝を祝賀した。ただし、当時の
造船術や
航海術はなお未熟な点も多く、海上での遭難も少なくなかった。そのような危険を冒してまで遣唐使たちは、多くの書籍やあるいはすぐれた
織物や
銀器・
陶器・
楽器などを数多く持ち帰り、また、唐の先進的な政治制度や国際色豊かな文化をもたらし、当時の日本に多大な影響をあたえた。中でも知識に対する貪欲さはすさまじく、皇帝から下賜された品々を売り払って、その代価ですべて書籍を購入して積み帰ったと唐の正史に記されるほどであった
[鐘江 (2008) p.134]。文物だけでなく、知識を身につけた留学生や留学僧も日本に戻って指導的な役割を果たしている。とくに、帰国した
吉備真備や
玄?は、のちに聖武天皇に重用され、政治の世界でも活躍した。